Natsuki Mio » 2011 » 5月
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初めてのラブレター

by Natsuki  2011 年 5 月 19 日 – 22:24  category NEWS

最近、ごはんではなくて、言葉の仕事をしました。 いわゆる「コピーライティング」です。 ある組織(というとあやしい感じだけどw)を紹介する,キャッチコピーとボディコピーを書きました。 やってみて思ったのは、私は「言葉にはこだわりがもてるかもな」ということです。 今思えば、昔店舗デザインの仕事をしていた頃、 プレゼン資料の写真につけるキャプションの文章にやたらこだわっていたなあ。 本来なら、造作や什器の細部のおさまりなんかに注意を払うべきなんですが…。 もやもやと形の定まらない考えにぴたっとはまる言葉を見つけたときの爽快感がたまらないんですねえ。 まあ、だからといって、普段のしゃべる言葉を 一言一句厳格に発しているかというと 全くそんなこと、ないんですが。 例えば、こうした日記上の言葉は、 自分の考えを,自分の言葉で表現しますが 仕事としてコピーを書くときは 自分ではないものに、自分が見つけてきた言葉をプレゼントする といった感覚です。 「対象」を観察し、想像力を働かせ、どこにスポットをあてようか、それをどのような言葉で説明しようか、試行錯誤します。 いきなりですが、わたしはラブレターというものを書いたことがありません。 日記で、「あの人が好きかも!」なんて吐き出したことはあるかもしれませんが 想いを伝える言葉を綴って差し出したことはありません。 私は、相手から見れば、たくさんいる他人の中のひとりでしかなく そんな「いち他人の私」が思っていることをとうとうと述べて押し付けるのが どうも気が引けたのです。 ただ、今回、コピーライティングのお仕事をしてみて、 そんな「いち他人でしかない私」の「思い」こそ大事なんではと気づきました。 むしろ,「思い」がなければ、うまく書けない。 「この組織がこうなってもらいたい」とか、「ここがいいところだ」と 私が強く思ったところで、やっと腑に落ちるコピーがかけたのです。 その組織と私の交差点に。 ただ、それは、自分の視点を公共にさらすことになるので なかなか勇気と責任のいることです。 うまく言えないはがゆさも感じました。 でも同時にわくわくもしました。 ラブレターを書くって、こんな感じなの?? 正確に言うと、仕事としてコピーを書くのは 「ラブレターの代筆」かもしれません。 「対象(今回の場合は「ある組織」)」と「コピーを受け取る側」との 恋の成就を請け負う立場とでもいいますか。 ラブレターを一度も書いたことがない私が 書いてしまった代筆ラブレター。 多くの人に、その組織の良さが伝わればいいなと願うばかりです。

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種をまく

by Natsuki  2011 年 5 月 6 日 – 11:18  category NEWS

突然ですが、最近、わたしは、朝、起きたときにラジオ体操をしています。 朝起きて、ああ、体が重いなあと感じて、すぐにできる運動がラジオ体操なんです。 ラジオ体操の動きと順序は体が覚えてます。 それは,間違いなく中学校の体育のY先生のおかげと言えます。 Y先生の、あの大きい体とパーマのかかった黒いショートヘア 鋭い目と厳しい声は、今でもすぐ思い出せます。 Y先生の指導には妥協がなく 中学校に入学してから一ヶ月くらいはひたすらラジオ体操と行進をし続けました。 どの動きひとつとっても「体の先まで意識する!」「美しく!!」と言われ 手の伸ばし方や、視線の方向、次の動きへの準備など 「ラジオ体操の美学」体に叩き込まれました。 さらに,Y先生は、体育の指導に加え 身なりに非常にうるさい人で わたしなどは,髪に整髪料をつけていったことで 丸々授業一時間分、みんなの前で説教をうけるはめになりました。 整髪料は,校則違反ということではありませんでしたが Y先生は「寝癖は水でなおる!」が口癖でした。 授業の厳しさについては異論はなかったのですが その身なりに対する指導に関しては 軍隊のようだと思って反発していました。 ただ、Y先生のおかげで私の体はラジオ体操をちゃんと覚えていて こうして今でも気持ちよく一日を始めることが出来ています。 Y先生の言った通り、ちゃんと体の細部まで意識して動かすと、 実に体全体の調子がよいのです。 そして,ラジオ体操をし終えると、 Y先生に対する「感謝」の念が小さくじわっと湧いて来るのです。 今,思い返しても、Y先生がいい先生なのかと問われるとよくわかりません。 ただ、教え子に「卒業しても何か強烈に残るもの」授けてくれていいます。 当時は、反発を受けようとも。 こうした先生と教え子の、タイムラグを生じるコミュニケーションは 実は、あらゆる物事の関係においても同じことが言えるのかも知れません。 例えば、ある展覧会で作品を見た時 そのときは、作品の意図がよくわからなかったけど あとになって思い返すと腑に落ちる、なんてことはよくあります。 それは映画とか,イベントとかにおいてもそう。 もしくは,親によく言われていた小言や,上司や先輩に受けた注意なんてのも。 後になって、じわじわ理解しはじめるんですね。 そして、若僧の私によくも,時間を割いて、貴重な言葉をかけてくれたもんだと、ありがたく感じるのです。 今すぐ、本質を理解してもらえなくても 何か、その人に,種を託せば それが確かな種であれば、必ず、後で,花開く。 種をまく方としては、根気のいることですが。 映画を作ったり,作品を作ったり,言葉を投げかけたり,技術を教える人たちができるのは、よくも悪くも「投げかけ」だけなのかもしれません。 でもそれで、いいんだなあと思ったのでした。